長崎研修旅行 2日目(後編)


 野母崎の帰りに、トイレ休憩をかねて野母崎町物産センターに立ち寄った。そして「車の中で食べよう」と言って、長崎の特産・枇杷で作られている、この町のオリジナルの「びわアイス」と「びわゼリー」を買った。
評論家も何か欲しがるかもしれないからと、リーダーが彼の携帯に電話を入れてみると、僕らの予想どおり、「カステラのストラップが欲しい!」という返事が返ってきた。だからそれも買った。
評論家の携帯には現在、大小30個ほどのストラップがジャングルのように、しかもひしめき合ってぶら下がっている。
「こんなにぶら下げて使いにくくないのか?」
と、それを見せてもらった友人たちは口々に言う。現に、電話が鳴り出してカバンから取り出そうとして、ストラップがカバンに引っかかってもがいているのを僕は何度か目撃したことがある。
これでまた数個増えることになるが、いったいどこにぶら下げるつもりなのだろうか。
な〜んて、本当は僕も面白がっているだけで、全く心配などはしていないのだ。
電話をかけ終わったリーダーに評論家の様子を尋ねると、眠っていたようだったけど、声の感じではずいぶん元気そうだったと言う。やれやれである。
長崎に戻る車の中で僕らは、先ほど買ったものを頬張った。陽は西に傾いたとはいえ、夏の陽射しはまだ強い。物産センターで買い物をしているわずか30分の間でも車の中はかなり焼けていた。そんな中で味わう「びわアイス」も「びわゼリー」もとても美味しかった。

 原爆資料館に戻ってきたのは、午後5時30分頃だった。「もう閉館の時間ですけど・・・」と言う駐車場の管理人のおじさんに「休護室に預けている友人をつれに行くだけですから」とお願いして、車を留めさせてもらった。そして、僕とリーダーを車に残して楠林さんが一人で評論家をつれに行った。
車に戻ってきた評論家は、すこぶる元気そうだった。「ああ、今日はたっぷり寝かせてもらったから充電ができたよ!」と言っている。
じゃあ、これから平和公園に平和記念像を見に行こうということになった。実を言うと、このコースは評論家が元気になってから一緒に見に行こうと、最後に取っておいたのだ。
リーダーの話によると、平和公園のすぐそばに、原爆落下中心地があるという。どちらも歩いて行ける距離らしいから、車を1箇所に留めて、そこから歩いて回ることにした。
先に行ったのは原爆落下中心地公園。原爆が投下された場所を示す標柱として、黒い三角柱の大きな碑が立っていた。そして、その横には原爆によって犠牲となった方々の名簿と、ここを訪れた多くの人たちから手向けられたのであろう、千羽鶴などが供えてあった。
1945年8月9日午前11時2分、この上空500メートルの所であのファット万という原子爆弾が炸裂したのである。今日一日原爆についていろいろ学んで、僕はその事実を身近な出来事として受け止められるようになった気がする。空を見上げて目を閉じると、原爆が投下される瞬間の映像が浮かんできそうな気さえした。
日本は戦争に負けたことで今の平和があるという。もしそうなら、その代償として失ったものはあまりにも大きすぎる。「No more Nagasaki!」僕もそう叫びたい心境だった。
夕方も6時を過ぎると、陽は陰って、風も涼しくなる。この時間帯に公園を歩くのはとても気持ちいい。僕らは楠林さんを中心に4人で枝になって歩いた。周囲では油蝉が鳴いていた。その声はどことなく寂しげにきこえた。もう夏も終わりに近いということなのだろう。
 爆心地公園から平和公園までは歩いて5分くらいの距離だった。川沿いの柳並木の歩道を通って、長崎特有の坂道や石段を上って行くと、まず最初に平和の泉に出た。この平和の泉は、原爆による熱風を浴び、熱さにもがき苦しみ、水を求め、亡くなっていった被爆者の霊に捧げられたものだそうだ。
石に刻まれている、被爆者の女性が書かれたという手記を楠林さんが読んでくれた。その文章をネットで見つけたので書き添えておこう。
「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくて、とうとうあぶらの浮いたまま飲みました。」
これは被爆当時9歳だった山口幸子さんという方がその時のことを振り返って書かれたものである。
これを読むと涙が出そうになる。きっとものすごく苦しかったに違いない。
 平和の泉を回って奥に進んで行くと、公園の中心という場所に平和記念像は建っていた。僕らは最もこれを見たかったのだ。
「見る」と言っても、実際に視覚で見ることはできないし、周りに堀があって触れることもできない。ただ、像のとっているポーズと、その意味を確認したかったのである。
まず、平和記念像は左足を立てた状態で座っている。
右手はまっすぐ上に伸ばし、人差し指で天を差している。
左手は手のひらを下に向けて真横に水平に伸ばしている。
そして、目は静かに閉じている。
天を差す右手は原爆の脅威を、水平に広げた左手は平和への祈りを、立てた左足は苦しみのどん底から立ち上がろうとする長崎市民を、それぞれ意味しているのだと、小学校の修学旅行の時に教えてもらったのを覚えている。
これは僕も知らなかったのだが、閉じた目にも意味があって、原爆で犠牲になった人々の冥福を祈る姿なのだそうだ。
僕らは、高さ9.7メートルのこの平和記念像の前に立って、一人ずつ楠林さんに写真を撮ってもらった。
時計を見ると7時半。もうすっかり日は暮れかかっていた。

 車に戻った僕らは、どこかで食事をと思ったが、もうこの時間からでは中華街の新地も間に合いそうにないし、とりあえずそれは後回しにして、お土産のカステラを買いに行こうということになった。
昨日、王鶴に向かうタクシーの中で、運転手さんに教えてもらった店がある。めがね橋の近くにある「松旺軒」という店だ。ここは古くからの老舗で、ここのカステラはけっして他所では手に入らないのだという。
ところが、その店は「めがね橋の近くにある」というだけで、詳しい位置までは聞いていない。とりあえず、めがね橋のそばの駐車場に車を預け、そこから歩いて探すことにした。結論から言うと、「松旺軒」というカステラ屋さんは、めがね橋を越えて、長崎公会堂の先の電車道を渡った所にあった。
僕らはそこでそれぞれ思い思いの買い物をして車に戻ってきたのだが。実はここで、僕らはとても親切な男性と出会ったのである。
駐車場に車を留めて、さあこれから店を探そうかという時に、「何か手伝うことはありませんか?」と声をかけられた。声の感じからして年齢は30代くらいだろうか。そこで、事情を説明すると、その男性は自分も知らないらしく、携帯で知人に電話をかけて尋ねてくれた。そして、「私がご案内しますから」と言って、歩いて5分くらいの所にある「松旺軒」までつれて行ってくれたのである。
そこまでならよくある話なのだが、その男性は僕らが買い物をする間、時間にして20分くらいだったと思うが、店の外でずっと待っていてくれた。そして、めがね橋の所で記念撮影をしようという僕らのために、カメラのシャッターまで押してくれた。お陰で、楠林さんも一緒に映ることができてとてもありがたかった。
 僕らはその親切な男性に見送られて車に乗り込み、二日間過ごした長崎の町を後にしたのだった。この時点で時計は8時半を回っていたように思う。周囲の風景は完全に夜警に変っていた。

「長崎の人ってすごく親切だよねえ!」
車が走り出して間もなく、そんな感想が誰の口からともなくこぼれた。
確かに僕もそう思う。
田舎のマスターの梅さん、田舎で僕らの相手をしてくださったれいさんとマンボーさん、「たくさん歌っていただいてありがとうございました」とわざわざ丁寧に礼を言って帰っていった田舎の行きずりの若者たち、山王神社で冷たいお茶を振舞ってくださった婦人会の方々、原爆資料館の帰りにロビーから駐車場まで僕に肩を貸してくださったおばさん、そして先程めがね橋でであった男性。
この人たちと触れ合った場面が、僕の頭の中で一瞬ずつフラッシュバックして流れていった。
 旅の良し悪しは、旅先で出会った人々によって決まると言っても過言ではない。そう言った意味で、今回の旅行はとても良い旅行だった。
評論家にすれば、いろいろと心残りもあるだろうけど。
「そうか、一日中あの部屋にいたのに、お姉さんとは何もドラマは起きなかったのか。それは残念だったなあ。」
帰りの車の中、そう言って評論家をみんなでからかった。
「二日酔いで原爆資料館の休護室を、それも閉館時間まで利用したのは、後にも先にも俺くらいなものだろう。貴重な経験をさせてもらったよ。」
そう言って評論家は笑っていた。

 帰りは、楠林さんがリーダー、僕、評論家の順に家まで送ってくれた。途中、リーダーの家の近くのファミレスに寄って食事をしたので、リーダーの家に着いたのが夜の11時頃、僕の家が11時50分頃、評論家の家が12時10分頃、そして楠林さんが帰り着いたのは、たぶん明け方だったのではないだろうか。
楠林さん、長距離の運転、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。

2005年9月2日



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