長崎研修旅行 2日目(中編)


 僕らが見て回ったのは、主に地下2階の常設展示室で、ここでは被爆の惨状、原爆が投下されるにいたった経過、被爆から現在までの長崎の復興の様子などが映像や音声で紹介されていた。
また、被災物品の展示もあった。そのほとんどはガラスケースの中に収められていたので僕らには見ることができなかったが、表面がザラザラになっている屋根瓦や、グシャグシャにつぶれて原型をほとんど留めていないサイダー瓶など、いくつか触れられるものも展示してあった。僕らは楠林さんに説明を読んでもらいながらそれらを片っ端から触っていった。
これは本当は触れてはいけないらしいのだが、長崎に投下されたファット万という原子爆弾の実物大の模型も触ってみた。細長いたまごみたいな形をしているその爆弾は長さが3.2メートル、直径が1.5メートル、重量が4.5トンもあるという。そして、側壁の四方に小さい数本のアンテナが立っていて、そのアンテナによって炸裂するタイミングなどを計るのだそうだ。
この爆弾が上空500メートルの位置で炸裂して、台風の9倍もの風力で長崎の町を半径1.5キロに渡って粉々に吹き飛ばしたというからすごい。
しかも、地上に降り注いだ熱線の温度は3000度もあったという。3000度と言えば太陽の表面温度の2分の1である。
僕らは映像が見えないから説明を聞きながら頭の中でイメージするしかないが、きっと想像なんかでは描ききれない被爆後の惨状だったにちがいない。
原子爆弾のもう一つのエネルギー、これが現在も多くの人々を苦しめているのだが、放射線の影響も恐ろしい。それについては僕はあまりにも知識が乏しいので、安易にここで語るのは控えた方がいいだろう。
原爆の被害の資料を見ると、亡くなった人が約7万4000人、負傷した人が約7万5000人とある。当時の長崎市の人口が約24万人だったそうだから、いかにその被害が大きかったかが分かる。
それに、60年経った現在でも尚、毎年被爆者名簿には、その年亡くなった方々の名前が新たに追加されている。
アメリカはなぜこんな恐ろしい爆弾をいまだに作り続けているのだろう?
臨界前とは言え、核実験の過程でも放射能を浴びている人はいるはずである。
「No more nagasaki! No more hiroshima!」
多くの人たちの、この叫びがどうしてアメリカには届かないのか。僕は激しい憤りを感じた。
 展示物のいくつかは、視覚障害者でも読めるように点字でも説明書きがしてあった。リーダーがそれを読むのを僕は横で聴きながら「なるほど!」とただうなづいていた。
用務員は僕らから少し距離をおいて、一人静かにガイドレシーバーの音声案内を聴きながら、熱心に勉強しているようだった。
 常設展示室の中を一通り見て回って地下1回のロビーに戻ってくると、その横に小さな売店があった。
戦争に関する資料や書物、CD、平和をイメージしたTシャツなどが売られていて、その他にもキーホルダーや携帯ストラップといったものも置いてあった。
そこで、今回一緒に見学することができなかった、かわいそうな評論家に、何かお土産をということになり、彼の最も喜びそうな、平和記念像の携帯ストラップを1個購入してプレゼントすることにした。自分たちでも、リーダーはTシャツを、楠林さんは何か本を買っているようだった。
この時点で時計を見ると、間もなく2時になろうとしていた。この後、楠林さんは野母崎に平和の鐘を見に行くと言う。野母崎までは車で1時間ほどかかるらしい。
「一緒に来る?」
「もちろん行きますよ。」
あっさりと決まり、僕らも同行させてもらうこととなった。
休護室に評論家を訪ねてみると、2時間前よりもずいぶん元気になっていた。
「二日酔いって言わなきゃよかったのに。」
おそらく、ただの酔っぱらいと思って、お姉さんに看病してもらえなかったのに違いない。その不満を言っているのだろう。
「ごめんごめん、悪かったよ!」
まあとにかく、軽い冗談が言えるくらいに快復していたので僕らはほっとした。咽が渇いたから冷たいお茶が飲みたいと言うので楠林さんに頼んで販売機で買ってきてもらった。
これから往復2時間かけて野母崎まで行ってくるから、何かあったら携帯に電話するようにと言って僕らは休護室を後にした。

 車の中はものすごく熱く焼けていた。乗り込んだ瞬間、まるでサウナのようだと感じた。2時40分の高速バスで唐津に帰るという用務員を長崎駅まで送って、それから僕ら3人は野母崎に向かった。
市街地を抜け、車は緩やかに蛇行しながら海岸線を南に向かって走って行く。「岬巡りの歌を思い出すなあ」と言いながら、その歌詞を暗唱する。こういうコースでは、エアコンよりも、窓を開けて自然の風を受けながら走る方が気持いい。その風にはほんのりと潮の香りが混じっている。
途中、30分くらい走ったところで一度車を留めて、炉端にかけてあった案内図で野母崎の場所を確認した。
もうそんなには遠くない。この場所から海に浮かぶ軍艦島がきれいに見えるというので、ここでも僕らは写真撮影をした。しかし、残念なことに肝心の軍艦島はちょうど逆光になり、写真に収めることはできなかった。
軍艦島は、昔海底炭鉱の島としてとても栄えていたという。炭鉱が閉山となり、そこで働いていたたくさんの人々が島を離れ、今では鉄琴の建物だけが残る無人島となって残っているのだそうだ。その名のとおり、軍艦の形に似ていて、最近では世界遺産にという運動も起こっているらしい。
車に戻ってから、リーダーがそう話してくれた。
「なんだか宝物が埋まっていそうですね!」
無人島と聞くと、僕は単純に宝島を連想してしまう。ましてそれが軍艦の形をしているとなるとなおさらだ。
「うん、そうだね!」
楠林さんもうなずいてくれた。
軍艦島を右手に見ながら、潮風を心地よく感じながら、車は野母崎に向かって走っていった。

 平和の鐘は野母崎の権現山展望公園という所にあった。その公園は、権現山の細い道をくねくねと登り、駐車場から歩いて数分の、眼下一面に海を見渡せる、とても眺めの良い場所である。説明書きに「本土最西端」という風に書いてある。
ある資料によると、一九八二年、広島市の平和公園にある「悲願の鐘」と呼応する夫婦鐘としてこの「発起の鐘」が建立されたとある。平和への願いが鐘の音に乗って、海を渡り世界に響くようにとの思いで、本土最西端のこの場所が選ばれたそうだ。
実は、この平和の鐘を建立した西村見暁という方は、生前阿曽に住んでおられて、楠林さんも親交があったそうである。それで、一度その平和の鐘をつきに行きたいと前前から思っていて、今日やっとその願いが叶ったというわけだ。
鐘にはたくさんの文字が彫ってあった。[Know they self]ギリシャの哲学者の言葉で「自己を知りなさい」という意味らしいが、その他にもヒンディー語で書かれたお教の一説とか、国境のない世界地図とか、原子と分子を描いた図とか。きっとその一つ一つには彫った人の深い思想が込められているのだろう。
僕らは、撞座の方に回って一人ずつ順番で鐘をついた。
自分がついている時はそうでもなかったが、少し離れた所で他の人がついている鐘の音を聴いていると、なんだか心が清められるような気がした。
「この音色、終戦記念日の黙祷の時に聴くあの鐘の音と同じだよねえ!」
楠林さんがつく鐘の音を聴きながら、僕はリーダーとそんな幼稚な乾燥を述べ合った。
鐘をつき終えて展望台に上り、果てしない海の風景をカメラに収めてから、僕らは車に戻った。時計を見るともう4時になっていた。

後編に続く。

2005年8月31日



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